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グッバイ・ユーテラス



(3)

夜の帳が降り辺りが藍色になり黒く沈んでいく。
視界に入る自分の手も闇に溶け輪郭がぼやけていく。目が慣れていくと多少なり色の違いがわかるが気を張らなければそのまま黄泉の世界へと連れて行かれそうだと思った。

見上げれば丸い月が煌々と輝く。星々も煌めき、独特の世界を作る。全てを照らす太陽とは違い、光り輝くのは空だけだが今日はいつもよりも明るいと思った。

「(色はかわらないか)」

石段に座り持っていた布を広げてみる。手触りは柔らかく頑丈、肌触りも自分が来ているものよりとても上等だ。目の前に掲げ溜息を吐く。
石段の先は小さな中庭になっていて空間に少し余裕がある。そしてその向こうに塀があり、布を月に照らすように掲げているのだが厚手の布は光を通すことなく色も黒のままだった。

「(私には出来ないのだろうか…)」

目を閉じ、思い浮かべたのは凱旋している国王軍だ。黄金の鎧を身に纏い、金色の髪を揺らす。歓声と一緒に手を上げる民、風土的に黄色く見える世界はまるで豊作の麦畑のようだった。
そのことを死んでも口にしてはいけないと思い浮かべる度に心するが、豊かさの象徴のひとつである麦に例えるのはそれほど間違ってもいないと思っていた。


「そこで何をしている」
ほくそ笑んでいたのを叱責するかのように低く鋭い声が聞こえ、肩を揺らした。振り返れば数メートルもしないところに誰かが立っている。

月に照らされた顔はこちらを見ていないようだが声色は男だった。その事実に息を呑み、一気に心が冷えていく。
ここは裁縫や料理等の仕事を任されている女達の領域だ。おいそれと男が入っていい場所ではない。もし忍び込んだことがバレれば重い罰は免れないだろう。

しかし、許される場合と人物がいる。血の気の引いた私は慌てて石段を下りるとその場で平伏した。

「もう一度聞く。何をしている」
「あの、その…」

上手く言葉が出てこない。緊張で心臓の音だけがやたらと大きく鼓膜を叩き煩わしかった。無言はダメだと、ちゃんと彼が理解できる言葉でないと最悪首をはねられるのだ。
手足が震え、ぶわりと脂汗が吹き出す。さっきまで考えていたことを見透かされてしまったような罪悪感が頭を支配し泣きそうだった。


「つ、月を見ていました…」
「フン。月や星を見たところで貴様に何がわかる」
口外に祭祀や巫女でもないのに何もわかるまい、といわれたみたいだった。その通りだと頷く半面、幽体が憑依したかのようにもう1人の自分が現れ悔しそうに唇を噛んだ。

不思議なことに今日の自分はいつもの自分ではなかった。そして恐ろしいと思いつつも勢いで口を開いた。

「恐れながら、私は染め物をしております。王に献上できる色になったので少しばかり編んだのですが、残念ながら私の思い違いでした」
「どういうことだ?」
「王が纏うものはどれも光り輝いております。それがたとえ、死を隣に感じるこの闇の中でも。私が作ったものは王が纏うに値しないものでした」

どれだけ高級な素材を使っても、どれだけ丁寧で満足のいく色に仕上げてもこれでは何の役にも立てない。彼を守る衣にすらなれない。
ぐっと拳を作りまた唇を噛む。地面を見つめる目には土と布の感触があるが色はどちらも同じだった。悔しい。心底悔しい。


「貴様は―――の娘だったな」
「は、はい」

布擦れの音が聞こえ我に返る。まさか父を、自分を認知していると思っていなくて顔を上げそうになった。父と祖父は宮廷の全ての染料を任されていた。特に祭事に関わるものを手掛けているから知っていたのかもしれない。
そうとはわかりつつも家族のことを知ってもらえている事実に心が温かくなり誇らしく思えた。

「そうか」と零した彼は少し間を置く。その間にまた緊張したが布擦れと一緒に足音が近くなる。すぐ近くに気配を感じた。
汗の匂いにドキリと心臓が跳ねる。何故かはわからない。異臭ではないがとても落ち着かなくて視線が泳いだ。

布を見せろと所望され、少し驚いたが断る理由もなかったので素早く進呈した。
「手触りは悪くない。色は何色だ?」
「あ、赤でございます」
渡した際掌を軽く引っ掻かれ心臓が跳ね、顔が熱くなる。そんな自分に動揺しどもりながらも答えれば彼はまた沈黙した。

王に似合う色は鬣と同じ金色だ。けれど今の私の技術では成しえない。いつかはと考えているけれどその金色に添えたい色は赤だと思っていた。

「晒せるということは余程真紅なのだろうな」
「はい」
彼は鼻で笑うと「金より似合うなどと初めていわれたわ」と勝手に納得して踵を返した。彼が起こした風がふわりと頬を撫でる。汗に混じってほんのり情事の匂いがした。


「貴様の悩みなど取るに足らんことだ。さっさと仕立てあげて献上するがいい」
「え、ですが…」
「たわけ。貴様の頭に入っているものはおが屑が何かか?作られた布はただの布でも我が纏えば光り輝く一級品になる。ただそれだけのことよ」
「あ…」

ぽろりと目からウロコが落ちた気がした。私はそんな当たり前のことも気づかなかったのだろうか。
呆れたのかバカにしているのかわからない声色で紡がれた言葉はことのほか心地よく、私は妙に納得して目の前が白ずんでいった。