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ぼんやりと天井を見上げたは何度か瞬きをしてのそりと起き上がった。が、またベッドに落ちた。
体がだるい。寝たには寝たけど全然寝れた気がしない。理由は明解で天井を見上げながらは溜息を吐いた。

「行きたくない…」

思い出すのは陽泉こと紫原君のことだ。まさかあそこでまたばったり出くわすことになるとは思ってもみなかった。思い出しただけでもせり上がるもの感じて顔をしかめた。

黄瀬君同様、紫原君も記憶の中程悪い人じゃなかった。しかも黄瀬君と違って彼は中学時代ののことも覚えていた。
その事実に想像以上の神経と体力が削られて立っているのもギリギリだったように思う。高尾君達が来てくれなかったら会場が閉まるまであそこに立ち尽くしていたかもしれない。


時計を見てまた溜息を吐く。身体にちゃんと染みついたようでいつもの時間に目を覚ましたようだ。

ベッドから足をおろし、ごろりと転がり落ちる。はしたないが動きたくない時に強制するには丁度いい。ぐだ、とカーペットの上に仰向けになれば冷気が身体を包み身震いした。


「お菓子を渡してる間は大丈夫、なんだよね…?」

本当に克服するならばお菓子を渡さない関係を築くべきなのだろうが、今のにはまだハードルが高いのでとりあえずそれで手を打とう、と勝手に思った。
紫の彼がどう思っているかは知らないけど…と、投げやりに考え、思考を放棄すると、くしゃみをひとつしてのろのろと身を起こし寝巻を脱いだ。



「(でも、そもそも陽泉って秋田だしこれが終わればとりあえず来年のインターハイまでは会わずに済むんじゃないか…?)」

もしかしてそこまで頑張らなくてもいいのかな、と家を出て目的地に向かいながらそんなことを考えた。

黄瀬君は神奈川だし、雑誌の撮影とかいってよく東京に来てる、というか黒子君に会いにきてるけど、紫原君は物理的に遠いしそこまでフットワークも軽くなさそうだ。
だったら極力1人で会わないように頑張れば乗り切れるのかも?


吐かなかったものの、精神的ダメージが大きくて後ろ向きのことしか考えられなかったはふと目に入ったコンビニに足を踏み入れた。

甘いものでも食べてちょっと心を癒そう、そう思いお菓子コーナーに行くとそこで見覚えのある人が立っていた。
ピタリと止めた足に相手もに気づいたようで、こちらを視界に入れるとやんわり微笑み「やあ」と愛想よく挨拶してくれた。


「ど、どうも…」
「君がカミサマだったんだ。昨日は敦が世話になったね」
「…その名前、やめてください…」

話は聞いたよ。と朗らかに微笑む氷室さんにはしかめた顔で声を絞り出した。
出ないと思った声は昨日の陽泉戦復習の時に戻ってきたのだけど、その切欠がアレックスさん珍事件だったのがなんともいえないところだ。

目の前の泣きボクロの彼を見て余計にそのことを思い出してしまい表情を強張らせていると氷室さんは少し困った顔で微笑んだ。



「やはり敦が勝手につけた名前だったか」
「……はい」
「Godと同じ名前だから変わった愛称だと思ったけど…ああ、気を悪くさせたならすまない。確かさん、といったよね」

敦の分も謝るよ、と丁寧に返してくる氷室さんには首を横に振って大丈夫、と返した。

それから何となく会話が途切れは欲しいお菓子を手にしてレジに向かったのだが会計が終わっても氷室さんがお菓子コーナーを見つめたまま動かないので何となく気になり声をかけた。


「敦が昨日キミがくれたお菓子をまた食べたいといいだしてね。本当は本人が来る予定だったんだけど監督に見つかって俺だけ出てきたんだ」
「監督…」

脳裏の浮かぶあの若そうだけどちょっと怖そうな女性の監督を思い出し、あの紫原君を引き留めるなんて凄いなと素直に思った。

「ここで逢えたのも何かの縁だし、敦に渡したお菓子を教えてもらってもいいかな?」

心底困った顔でお願いする氷室さんに、は再度丁寧な人だなと思いつつ昨日あげたお菓子のパッケージを教えてあげた。


レジを終え、なんとなく一緒にコンビニを出てしまったはなんとなく氷室さんと並んで歩いていた。特に話すこともなかったのでお互い無言だったけど嫌な感じはしなかった。
背も高いし紫原君と仲がいいみたいだし妙に大人っぽい雰囲気があって近寄り難いと思ってたけど実際一緒に歩いてみると波打っていた心がだんだんと静まる感じがした。

この人なんか凄いかも、と思っていると氷室さんが立ち止まり「ホテルこっちだから」といってが向かう方とは別の方を指さした。



「氷室さん。これ、」
「これは?」
「紫原君にこれも渡してください」

それだけじゃ足りないだろうから。とパンパンになってるビニール袋を指しながらいうと氷室さんはクスリと笑って「敦のことよくわかってるんだね」とあまり嬉しくないことをいってきた。


「別に。今日の試合、最後までちゃんと出てほしいから…それだけです」


バスケに対して紫原君がどう考えているかは知らない。
別に試合をサボって遅刻とか出ないなんて青峰みたいなことはないみたいだけど、平常時が妙に脱力してるというかやる気ないイメージが色濃くて馬に人参、みたいなエサがあれば試合にもちゃんと出てくれるんじゃないかな、と思ったまでだ。

「…敦は強いよ?」
「はい。知ってます」
「勝てる目算はあるのかい?」
「どう、ですかね……でも、みんな勝つ為に練習してきたから」
「……」
「誠凛は負けません」


真っ直ぐ氷室さんを見据えれば、彼は目を丸くした後嬉しそうに微笑み「それは楽しみだ」とが差し出したお菓子を受け取った。



「氷室さん」
「ん?」
「火神君と…どうして彼と兄弟を解消したいって思ったんですか?」

視線を下げ、彼の足元を見つめながら言葉を切り出した。
氷室さんの話を火神に聞いた時、リングの意味もアメリカでの最後の試合の話も聞いたけど、その時の氷室さんは本気で戦わない火神に怒ってるんだと思っていた。

でも、本物の氷室さんを目の前にして、この人は怒りを持続させるような苛立った人でも根に持つ人でもないように思えた。

もしかしたら隠すのがとても上手いだけかもしれないけど、の目にはとても時間を置いてまで兄弟解消の話を持ち出す人には思えなかった。


「大我はその話もさんに話したんだ」
「…はい」

少し目を細める彼に、あ、ヤバいかも、と思ったが、氷室さんはフッと笑い「良かった。信頼できる仲間が出来たんだ」と普通に喜んでくれていた。
それは友人のことのように。兄弟であるかのように。親しみのある笑みにはやっぱり違うんじゃないだろうか、と思った。

「…大我から聞いたと思うけど、兄弟であることで大我が本気で戦わないと知ってしまったから、かな。俺はどうしても大我と本気で戦いたい。だから兄弟を辞めたいんだ」
「そう、ですか」


火神が少し濁していたけど、殆ど言葉通りだった。氷室さんは火神と戦う為に兄弟であることを解消したい。負けても兄であることを返上したい。
彼の中でどう考えた上でその答えに辿り着いたかはわからないけど意志は固いように思えた。

だから余計に違和感だけが残る。火神に友達が出来たことをこんなにも喜んでくれたのに、どうしてそこだけ頑ななのだろう。兄弟であることがそんなにも煩わしいと思っているのだろうか?何故?どうして?



「氷室さん。私、私には兄弟がいないからわからないんですけど、本当に兄弟をやめなきゃダメなんですか?」
「……」
「火神君が氷室さんに対して裏切り行為をしたのはわかってます。でも、それきりだったと思います。その1度きりの過ちを許してもらうことはできないんですか?」


手に持ったビニール袋ががさりと揺れる。両手を握り親指を落ち着かなそうに弄りながら氷室さんに許しを請う表情で見上げた。

「多分きっと、火神君は必死な気持ちで氷室さんと戦うと思います。氷室さんの気持ちに応えるために。でもそれと同じくらい悩んでると思うんです。
火神君にとってあの指輪は宝物なんです。いつも肌身離さずつけてて、火神君に好意を抱いてる女の子達が嫉妬するくらい大事にしていて。それって氷室さんのことを大切に想ってるからだと思うんです」
「……」
「それでも兄弟をやめなきゃいけないんですか?火神君のことが許せないんですか?」

最後の方はもう涙声だった。昨日のこともあって情緒不安定になっているらしい。いきなり泣くほぼ初対面の女に氷室さんもさぞや驚いていることだろう。
下手をしたら鬱陶しいって思われてもおかしくないくらい自分の行動は突飛で怖い。


それにこの話は火神と氷室さん2人の話で本来が介入していいものではない。それなのにべらべら喋って泣いて、氷室さんが怒らない方がおかしいかもしれない。というか、火神にも怒られるかもしれない。

そう考えたら一気に頭が冷えて零れそうになった涙を慌てて拭った。

「す、すみません。私…」

ろくに話してもいないのにこんな失礼なこと、と俯くとビニール袋を置いた氷室さんが1歩踏み出しの目の前に立った。それからそっとの背に手を回し壊れものを包むように柔らかく抱きしめた。



「許せない、というわけじゃないだ。むしろあの時のことはもう怒っていない」
「氷室さん…」

なら、どうして?と目の前にある肩から彼の顔がある方に視線を向けると少し困った顔の氷室さんが小さく微笑んだ。

「これは、まだ大我にも誰にもいっていないことなんだけど…大我の成長速度が早いことは理解しているかい?」
「…はい、」
「あの速度はある意味異常だよ。そしてまだ限界が見えない。才能の差を見せつけられた気がしたよ」
「……」
「俺はあの時、自分よりも劣る実力であることを知って落胆する大我が見えてしまったんだ…だから、彼が憧れたまま兄弟を解消したいと思った」

半分は逃げのようなものだけどね、と自嘲する氷室さんに「そんな、」と彼のジャージを掴んだがその後に言葉が続かなかった。

そんなことはない。それくらいのことで火神が氷室さんに落胆するなんて思えない。そう視線で訴えれば彼は眉尻を下げてまた微笑んだ。でも少し悲しそうだった。


「やはり大我はこっちに戻ってきて正解だったよ。"そう思ってもらえる"仲間に出会えたんだから」

まるで以前はそう思ってなかった、という言い回しには表情を曇らせたが氷室さんは微笑んだままの目尻を指の腹で拭った。

「キミは優しいね」
「っ…」
「その優しさで、これからも大我を支えてやってくれ」

ふわりと離れたぬくもりには咄嗟に彼のジャージの裾を掴んだ。そんなことをされると思ってなかったらしい氷室さんは少し驚いた顔でこちらに振り向く。



「や、です…!」
「……」
「嫌です!ひ、氷室さんもじゃなきゃ!でなきゃ、火神君泣いちゃうじゃないですか…!」

まるで今生の別れの言葉みたいに聞こえてざわついて胸が締め付けられた。そう思ったら彼を引き留めていた。もう子供の我儘と一緒だ。
氷室さんにも「泣いてるのはキミじゃないか」と指摘されてこちらに向き直る。子供をあやすような手つきで頭を撫でてくるから余計に泣きたくなった。


「だったら、だったら氷室さんももっと強くなればいいです…!1on1が嫌ならチームだっていいじゃないですかっ負けたってまた戦えば!それでも、火神君にとってお兄さんは氷室さんだけなんです!」
「……」
「落胆されるのも、嫌われるのも、怖いのは火神君も一緒です…っ」

そう。が恐れたのは火神が氷室さんに嫌われたんじゃないかと考えていないか、ということだった。

恐らく女のよりも火神の方が交友関係をドライに考えているだろう。だからここまで思いつめてないと思うけど『兄弟』という家族に匹敵する名前と関係で嫌われたかもしれない、と過るのは思った以上に心に来る気がしたのだ。


「才能が何だっていうんですか…っそんな言葉で火神君を1人にしないでください…!」


氷室さんの気持ちも頭の端ではなんとなく理解したけど、それでもやっぱり火神に感情移入して、肩入れしたくなってしまう。



火神はもう昔のことのようにぼやいていたけどバスケを1度辞めたと聞いて驚いたことがある。それが誠凛に入って先輩達に出会って黒子君と出会えてまたバスケが楽しいと思えてる。

その姿しか見ていないにとっては意外を通り越して阿呆なのではと思った。本人も周りも。
好きなことをやれない環境も、やれるような環境を作れなかった火神自身も。


でも、あれだけの才能を持ちながら動けなかったことは、閉ざされた環境で動けなくなってしまうというところだけはも少し理解できて、そして今の姿をもう1度思い浮かべ心底良かったな、と思った。

だからこそ氷室さんが火神から離れていくことが怖い、と思ってしまった。

「すまない、」
「っ!」
「女性をここまで泣かしてしまうなんて…」
「い、いえ、これは、私が勝手に」

むしろ勝手に泣いてることを謝りたいくらいなのに氷室さんは申し訳なさそうにの頬を両手で包み込んだ。親指で優しく涙を拭う氷室さんを見上げれば彼は眉尻を下げ、「澄んだ瞳だ」とを見つめ微笑んだ。


さん。少し訂正するよ」
「…?」
「あの時のことはもう怒っていないといったが…それは嘘だ」
「…っ」
「遺恨は俺の心を寝床にしてまだここに残っている。だから俺はここまで強くなれたし、大我とまだ袂を分かちたいと思っているんだ……要するに今の俺は嫉妬の塊なんだ」
「……」
「俺は、火神大我に嫉妬している」

氷室さんの告白にドキリとする。さっきよりも見える感情に動揺した。どう言葉にしたらいいのかわかなくなってる。



「けど、さんの言葉を聞いて目が覚めた気分だったよ。確かに、大我を孤独にさせるのは、俺も哀しい」
「……」
「だからさん。兄を辞めるか解消するか、それも含めて今日の試合で答えを出したい……大我と全力でぶつかって、それでどうするか決めたい。それでもいいかい?」
「……はい」

結局戦わなきゃ答えが出ないのは変わってないけど、でもは氷室さんを見据え頷いた。彼の表情に嘘はないと思うから。

嫉妬していることも火神を一人ぼっちにさせたくないことも全部抱え悩むような瞳に信じてみよう、そう思った。




2019/08/14
エレガントヤンキーって物凄いパワーワードですよね。