あの跡部景吾に見つかって、しかもお姫様抱っこまでされて連れてこられたのは誰もが羨む禁断の領域の男子テニス部の部室だった。
あまりの衝撃の大きさに頭が真っ白だったは跡部景吾が忍足侑士に連れられて出て行った後もずらりと並ぶロッカーやノートパソコンを眺めていた。
「何やってんだろ、私…」
視線を下げれば傷だらけになった膝と手の平があって、本当に何してんだろうって思った。床にはほんの少し水が残ってるペットボトルと水が染み出した濡れたタオルが見える。
いけない、と思ってタオルで染み出た水を拭こうとしたが、広がるだけで拭いきれない。ピリっと痛む傷と綺麗にならない、むしろ広がっていく水の跡に自分の心が血を流して全てを穢していくような錯覚に陥った。
そう思ったらなんだか悲しくなってはぽたりと涙を零した。
本当に何やってんだろう。
あの跡部景吾に迷惑をかけて。
訳がわからないイジメを受けて。
いや違う。"あかりん"達はこういったんだ。
『ファンクラブに入ってるうちらですらなかなか近づけないってのに庶民が近づくなって話』
それで導き出された答えに拭いた床が落ちた雫でどんどん濡れていく。私が何をしたっていうんだ。ただ話しただけなのに。それすら許さないとか何様なんだ。彼と自分はもう何もない。もう何も感じてない。全部終わったんだ。
「…出よう」
こんなところにいたらまた何かいわれる。見つかればきっとまた嫌がらせをされるんだ。そう思いドアノブを掴んだががノブを回す前に勝手に開いた。ドアを開けたのは跡部景吾で、彼はを見るなりこれでもかと眉を寄せた。
「どこに行く気だ」
「…教室に戻ります」
「そんな顔で戻れると思ってんのか?アーン?」
動くなっつっただろうが。彼の横を通り過ぎようと試みただったが簡単に捕まり、あっさりとソファに連れ戻された。
やや乱暴にソファに座らされたは嫌だと暴れたが彼の手は吸いつたように離れない。ギリっと睨みつければ跡部景吾は驚いた顔になってそれから小さく笑った。
「離してください…!」
「テメェが出て行かねぇっていうなら離してやってもいいぜ?」
クッと笑った王様には逃がすつもりがないのか、と悟った。けれどこれ以上彼と話す気はない。そのせいで苛められるなんてもっとゴメンだ。教室で起こったさっきの出来事を思い出しゾクリと背筋が粟立つ。その恐怖が震えになって涙が零れ落ちた。
「…っおい、」
「…っく、…離して。もう私に関わらないで…」
「……っ」
ボロボロと泣くに王様は心底困ったような顔をして、の頭を撫でるとそのまま抱きしめた。
「やっ…放し」
「拒むんじゃねぇよ。地味に傷つくだろうが」
「……っでも、」
「こういう時は人の腕の中にいる方が安心するもんなんだよ」
だからこのままでいろ、と怒った口調に眉を寄せた。こんな時まで王様みたいにしなくたっていいじゃないか。誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ!そう思って胸を押し返したが比例するように跡部景吾の腕の力も強くなった。
ぎゅうっと密着する身体には涙も出たが、それと同時に伝わってくる温かさが変に落ち着いてきて、なんだかよくわからない気持ちになった。
「やだ、放して…っ」
「っ…俺様に抱きしめられるのも嫌っていうのかよ!」
「だって、だって…っ」
私は跡部景吾なんてどうでもいいって思ってる。彼に失望したんだ。氷帝のトップに君臨する彼を、その彼の周りで熱心に応援する彼女達を檻の外で嘲笑って、関係ないって冷めたフリして。
私の恋は1年のあの時に終わってた。だから物語は完結しなかったし、手帳に入れて持ち歩いてはいたけどあの部分だけは見れないようにテープで留めていた。
「私は…あなたに、こんなことされる価値ないの。だから、放して…!」
跡部景吾が入学式最初にいった言葉が木霊する。
『最高の環境を生かすも殺すもお前ら次第だ。自分を甘やかすな、充実した学園生活を自分で掴み取れ!!』
私はこの2年間何をした?ただ、温い環境に甘んじて、出来ない自分を見て見ぬフリをして何も努力しなかった。
彼に抱いてた気持ちもひしゃげてしまってもうあの頃の綺麗なままじゃない。頑張ってる相手に言うべきじゃない言葉をたくさんいった。だから自分はこの場にいるべき人間じゃない。
「放…んぅ!」
離れようと躍起になって腕を突っぱねれば、いきなり手を離されの身体がソファに落ちた。転がった身体に慌てて身を起こそうとしたが跡部景吾が覆い被さり、そのまま顔を近づけの口を塞いだ。
驚き手を彼の肩に手をやったが彼の手に捉えられ、そのままソファに縫い付けられる。掛かる重みと唇の感触に呼吸すら覚束なくて眉を寄せれば彼は唇をべろりと舐められた。
「ふぁ、」
思わず出た声に自分自身が驚き口を噤むと「ようやく、こっちを見たな」と目を細める王様と目があった。
「う、うぅ…っ」
「お、おい。泣くなよ…」
「何で、こんな、こと…するの?」
泣くつもりはなかったのだが、彼を見たら涙腺と感情が壊れてしまったらしく、自分でもどうにもならなくなっていた。ボロボロと涙を零すに王様は目を見開くと狼狽えたように目を瞬かせた。
「そりゃ、お前がこっちを見ないから…他に思いつかなかったんだよ」
この人女の子にそんなことしかしないんだろうか。やっぱり嫌だ、と思ってぶわっと涙を流せば跡部景吾は「そんなに俺とキスするのが嫌なのかよ!」とむくれた顔で声を荒げるので更に涙に拍車がかかった。何も怒鳴らなくたっていいじゃないか。
まるで子供みたいだ。
「だって、付き合ってもないのに…好きでもないのに…キ、スとかありえない…」
「俺だって嫌いな奴にキスなんかしねーよ」
「…?」
「お前だから、したいって思ったんだよ」
頬に添えられた手にビクッと肩を震わせれば彼はギュッと眉を寄せ「キスくらいで泣くんじゃねぇよ」と強めの力で涙を拭った。泣き過ぎてピリリと痛い頬に目を瞑れば手がぴくりと止まり「チッ」と舌打ちが聞こえた。
彼が何を考えてるのかわからなくて身を強ばらせれば再び抱きしめられた。
「怖がんじゃねーよ。俺は敵じゃねぇ」
「…ぅえ?」
「お前を守りてーんだよ」
髪に差し入れられる指の感触にゾクリとする。腕の強さに包まれる温かさに男の人なんだなって思って、クラクラして胸がぎゅうっと締め付けられるほど切なくて。このまま流されてしがみつきたい感情を必死に堪えて頭を振った。
「私を…守る、必要なんか、ないです。私あなたにそんなことされる…覚えない、し、してもらえる、程、知らないし価値も…ない、んです。
それに、会長が探してる人、じゃないし、お金持ちでも…ないし…何かが凄くできる、わけでもないし、美人でも…なんでもない、し、何も…いいとこなんて、」
「あるだろ」
黙らせるように肩を押し付けてくる跡部景吾にそんなこと言わないでほしい、と思った。1年の時に散々見せつけられてやっと諦めたんだ。だからこれ以上何もいわないでほしい。期待させないでほしい。
「俺がいてほしい時にお前がいて、その願いを叶えたんだ。それだけでも十分価値があるんだよ」
「でも、それは、誰にでもできることじゃ…ないですか」
「誰にでも、じゃねぇ」
離れたかと思えば今度は両頬に温かさを感じた。目の前には跡部景吾の顔があって彼のアイスブルーの瞳に自分が映った気がして逃げようとした。しかしそれは「逃げんじゃねぇ」という彼の強い言葉で身動きが取れなくなる。
「あの時あの場所にいたのはお前だけだ。授業中で、あのタイミングに他に保健室に来る奴がいたか?もし仮に誰かいて自分も具合が悪かったのに俺の看病を優先する奴が何人居る?」
「そんな、そんなこと。だってあなたは…」
「いいか。あの時俺を好いてる奴は誰も現れなかった。保険医も教師も仲間も。お前だけだったんだ」
「……」
「それにお前が思う程俺は何でもできるわけじゃねぇ。現にお前が窮地に立たされているのを向日から連絡が来るまで気付けなかった」
「……向日、くん?」
「…ああ。あいつから"が戻ってこねぇ"って連絡があった」
そうなんだ。別れ際に見た向日を思い出し、ぽっと胸の内が温かくなる。心配してくれてたんだ。その表情にグッと眉を寄せた跡部は「それに、」との思考を遮るように切り出した。
「俺がここでやっていることは自分ができる範囲を最大限に使ってるだけだ。やれねぇことは手を出してねぇんだよ」
「…そう、なの?」
「ああ。だから世界の飢餓に苦しむ奴らを救おうと思ってもほんの一部しか助けらんねぇし、跡部の会社をもっとでかくしようにも俺はまだまだガキで親父達の足元にも及ばねぇ。ここではキングかもしれねーが1歩外に出ればお前と同じただのガキなんだよ」
「そんなこと、なぃ」
「あるんだよ。いい例が2年前だ。お前を探そうとしても熱で記憶がぶっ飛んでるわ、あんだけ近くで見たっていうのに顔もおぼろげで思い出せやしねぇ。あの時お前と保健室で会うまで見つけることができなかった」
「……」
「どんなに財力があっても、どんなに権力があっても、1人の女を探し出して礼を言うことすらできない俺に大した力なんてねぇんだよ」
「っちが…そんなことない!」
そんなことない。だって自分がもっとお金持ちでもっと勉強が出来たりスポーツができたりすれば彼と関わることが出来て出会うこともできた。私にはそれがなかっただけで。
パラパラと手帳に書いた懐かしい思い出が脳裏を過ぎる。先輩達に負けないくらいの実力を保っていられるのは彼の能力の高さもだけどずっとずっと努力してるんだろうって思った。
そう思えたのは保健室で倒れた彼と出会えたからで。大人顔負けのことをするなんて自分には出来ない。けど彼なら出来てしまう。
「跡部くんは凄いよ。私は自分のことで精一杯なのにテニス部とか学校とかみんなのことちゃんと見てて。ずっとずっと前を向いてて私もついて行きたいって思ったの」
中には自分の財力をひけらかしてるだけだ、とか自分の思う通りに我侭してるだけだ、とかいう人もいたけど、そんなのは最初の1年だけだ。彼の姿を見たら彼の意志の強さを見たらみんな道楽でこんなことをしてるとは言わないはずだ。
「跡部くんだから、みんな安心してついていけるの」
だからそんな悲しい顔をしないで。両頬を押さえてる手に自分の手を添えれば彼は驚いたように何度か瞬きをして、それからはにかむように笑った。そんな柔らかく笑うこともできるんだ。
「いってるお前が泣きそうになってどうすんだよ」
「え、あっ…」
ホロリと零れた涙に視線を下げると王様はその涙をペロリと舐めて目尻に溜まった涙も吸い取った。最後に額にキスを落とす彼にまた困惑顔で見上げると彼がフッとまた笑った。
「そんなにトップの俺が好きか?」
「え?」
「今言った言葉に二言はねぇよな」
「え?え?」
「望み通り、俺について来い。」
話が繋がってるのか確認したくなる程突飛な言葉には「え?」と何度も繰り返した。考えなきゃいけないのに思考は彼が呼んだ自分の名前で止まってしまっている。
「え、や、無理…です」
「アーン?」
「ひっ!…だ、だって、私、何の才能もないし、何もできないし」
「無理じゃねぇし決めつけんな。ねぇならそんなのこれから作っていけばいいじゃねぇか」
「え?ええ?」
急な展開に混乱して「だって、私あんな長ったらしい香水持ってないし!」とよくわからないタイミングでいってしまった。
「香水…?ああ、あの張り紙のやつか。あれは間違いだ。むしろ忘れていい」
「忘れろって!だって私、それで…」
「だから俺の勘違いだったんだ。俺の探してた女は香水もしない、化粧もろくしない、纏わせてるのはシャンプーと制汗スプレーだけっていう氷帝じゃ珍しい、中学生らしい中学生ってことだよ」
頬を押さえていた手を解かれと思ったらそのまま跡部景吾がぴったりと隙間が見えないくらいを抱きしめる。
「あの時とは逆だな」と嬉しそうな声が耳元でダイレクトに聞こえてきて顔が熱くなる。や、ちょっと!今匂い嗅いだでしょ!触れた鼻先にビクッとしたは身を捩ったりもがいたりしたが跡部景吾はビクともしなかった。心なしか楽しそうに笑ってる声が聞こえる。
「は、放して!変態!!」
「変態とは聞き捨てならねぇな。折角の再会を噛み締めてるだけじゃねぇか」
「だからって匂い嗅がないで!」
「アーン?いい匂いじゃねぇか。好きだぜ、この匂い」
「…っ!!」
匂い匂いと女の子にいう言葉じゃない!!また違った意味で泣きそうになったが首筋に感じたチクリとした感覚に身を強ばらせた。え、今何しました?
「あの、今…」
「。才能なんてのは人間誰でも持ってんだよ。それを見つけて育てるか否かは本人次第だ」
「……」
「お前が欲してもがこうっていうなら、俺様はどんなことがあってもお前を見捨てたりしねぇ…だから逃げんな」
身を起こし視線を合わせてきた跡部景吾にはごくりと息を飲んだ。まっすぐ見据える瞳に心臓が大きく鳴り響く。
その視線の強さに目を逸らしたくなる。逃げたくなる。でもそれと同じくらい逃げたくない。一緒にいたい。跡部景吾をもっと見ていたい。ずっと、彼の近くで。
「俺様が見守ってやる。だから俺の傍にいろ、」
の言葉を視線でわかってしまったのか跡部景吾はフッと目を細めると「長い追いかけっこだったぜ」と笑ってを愛おしそうに抱きしめた。
2013.05.13