You know what?




□ 18 □




最初は好きでも嫌いでもなかった。
彼女にとって俺はただのクラスメイトで真田の友達、俺にとっても彼女はただのクラスメイトであり真田の従妹でしかなかった。

ただそれだけの関係を変えてしまったのは共通である真田だった。


をマネージャーとしてテニス部に入れたい』


彼の言葉で少なからず動揺した。

自分のテリトリーの崩壊。当の自分がいない状況でそんなことなどいえる立場ではなかったけど、明日はないかもしれないという恐怖に苛まれていた俺にとっては奈落の底に突き落とされたような衝撃だった。

だから『はテニスを好きでも嫌いでもないようだ』と柳の言葉を聞いた時、悔しさと一緒にドロドロした黒い感情が俺の中に渦巻いた。


『本気になれない人間がついてこれるような部活じゃないんだよ』

そういわれて彼女は驚いた顔をしていた。
まさか俺にそんなことをいわれるなんて夢にも思ってなかったんだろう。俺でさえこんな感情を抱える日が来るなんて予想してなかった。

天職かもしれないとさえ思えた大好きなテニスを奪われた上に、大切な場所を他人が、しかも土足で踏みにじるかもしれない。そう思ったら、を前にしたら負の感情が止まらなくて。

ただのクラスメイトの頃は何も思わなかった。けれどマネージャーになるというなら話は別だ。テニスに興味なんてない、埋め合わせだけのマネージャーなんていらないと思った。



ぼんやりと窓の外を眺めていると病室のドアをノックする音が聞こえた。了承しドアが開くと中に入ってきたのは柳だった。今日は真田は一緒ではないらしい。
珍しいな、と思いながら挨拶を交わし要件を話してそれから千羽鶴の礼をいえば自然と彼女の話題になった。

と話はしたか?」
「うん。世間話程度だけどね」

嘘をついた。話した内容は世間話とは程遠い真逆の話だったけれど、柳に話す気はなかった。
柳はを気に入っている。最初はどうだったか知らないけれど不器用なりに頑張る姿に心打たれたのか何かとバックアップしてるのは聞いていた。

そう思う度にまたひとつ自分の知らないテニス部が出来上がっていくみたいで胸が軋んだ。


「どうだ。少しは安心できそうか?」
「ああ。柳達もついてるんだし心配はしてないよ」

そんなわけない。柳は俺に負担を減らす為にを送り込んだのだろうけど逆効果だ。そんなことをするくらいならいっそ見せないままの方が良かった。

「ああ、それはそうと弦一郎だがな。今日は用事があって来れなくなった」
「珍しいな。柳が来れないことはあったけど真田が顔出さないなんて」
「弦一郎のことだ。また折を見て見舞いに来るだろう……」
「どうかした?」
「いや、これを報告するかどうかまだ迷っていたのだが…」


言葉を濁す柳に再度どうしたのかと問えば、が階段から落ちて手首を痛めだと聞かされた。今日は病院に行く日でその付き添いに真田が同行してるらしい。

「へぇ、大丈夫なの?」
「……ああ。1、2週間は生活に支障があると思うが、そうかからず治るだろう」
「でもそれじゃ、マネージャーの仕事も大変なんじゃない?」


安易にこのまま辞めてくれればいい、と思っていると今は平部員が彼女の仕事を分担して行っているため問題はないのだという。それじゃ彼女のいる意味はないんじゃないか?と思ったが柳の口から彼女が辞めるような発言はなかった。



『悔しかったら、さっさと手術してテニスしなよ』

じわじわと染み込んでいく毒のように、の言葉が頭に響く。彼女の宣言通り、幸村が帰ってくるまでテニス部に居座るつもりなんだろう。その間にもどんどん彼女が侵食していって俺の知っているテニス部を腐敗させていってるのかもしれない。

そう思ったら悔しくて手にある布団を握り締めた。


「…精市。本当にと話をしたのか?」
「……なんでそんなことを聞くの?」
が階段から落ちたと聞いて心配はテニスだけか?」
「…そんなことないよ」

痛いところを突かれて言葉が詰まった。指摘されて初めて自分の感覚がおかしいと気づく。普通なら階段から落ちた、と聞いただけで驚くところなのに。
それだけを疎ましく考えているのかと思うと自分が酷く浅ましく見えた。


「精市。退院したらまずと皆瀬が書いている部誌を読むといい」


人の不幸をどこかで喜んでいるように見えた自分に嫌悪して唇を噛むと、柳は諭すように幸村の肩を叩いた。



*****



それから手術は無事成功してリハビリを終えた頃には時期はもう全国大会の季節になっていた。今年は青学が流れを握っていて気を抜けない状態が続いていた。
真田達のコンディションは上々だ。自分も入院前の時と比べても大差ないくらいまでの状態まで戻っていた。

危惧することがあれば持久戦からくる疲れだろうか。落ちた体力を戻すのが何気に大変で、コートに立って相手のボールを受けるまで不安は拭えない。

束の間の昼休憩に次の試合のことで柳と打ち合わせをしていると自分達の横を通り過ぎる声に気がついた。
珍しい組み合わせだ、と思ってしまう。幸村の記憶では2年の頃と柳と真田の話しか情報がない。だからと丸井が仲良く話しているのは意外だった。


「…そうそう。マジマジ。私外部の高校第一志望にしたし」

そこだけ聞こえて幸村の手がピクリと動いた。彼女のすぐ隣では「はあ?!お前バカだろ?それ持ってこいよ!俺が書き直してやっから!!」と怒る丸井の声が響く。
そうか。は外部に行くかもしれないのか。通り過ぎた後も丸井の声が響き渡り、視線をあげれば煩そうに肩を竦める彼女の背中が見えた。


「…賑やかだな」
「丸井は元々動じないタイプだからね」
「精市。部誌はもう読んだか?」
「……いいや。まだだよ」

緊張感がないわけではなくマイペースでフラットなだけで能力は高い。そんな丸井ですら話してるのかとふと思ったがそこに感情は何も生まれなかった。
どうやら退院してまたテニスができるようになったことで鬱々とした感情が嘘のように抜け落ちたらしい。


ただ一心にテニスのことだけを考え邁進できるこの状況が嬉しくてたまらないんだろう。現にマネージャーとして動いているを見ても何も思わなかった。
もしかしたらつまらない、窮屈な入院生活で心が荒んでいたのかもしれない。

あの頃だったら頑なに拒絶していたであろう柳の言葉も大会が終わったら読んでみてもいい、そう思えた。



*****



見上げれば赤く染まった空が視界に広がる。その柔らかい色に息を吐いた。


全国が終わった。
感無量だった。


試合が終わるまでは優勝しなくちゃという想いが大きかったけれど、終わってみれば結果などどうでもいいように思えた。
試合を全力でやりきれたことと、やっぱりテニスが好きなんだと思えたことが嬉しくてたまらない。

赤也には悪いけど幸村はこの倦怠感が心地良かった。


送迎バスを待つ傍ら、チームメイトを見れば荷物を抱え泣いている姿がぽつぽつ見える。先程、真田が悲しみにくれる部員に喝を入れていたがそれでもやはり止まらないようだ。

試合直後、悔し泣きをしていた赤也は今は丸井とジャッカルと楽しそうに話をしている。ああ、仁王が何かしようとしてる。後ろで笑ってる彼にその後の赤也の表情がありありと浮かんで微笑み視線をずらすと、真田と柳、それから柳生と皆瀬が何やら話してるのが見えた。


「どうしたの?」
「幸村か。そろそろバスが来る頃なのだががまだ戻ってきておらんのだ」
「私がうっかり荷物忘れちゃって…会場まで戻ったと思うんだけど」

さっきまで泣いていたのか、皆瀬の目が赤く腫れている。スン、と鼻をすすりながら申し訳なさそうにする彼女を柳生が優しく宥めた。
どうしようか、と考えていると立海が乗るバスが到着し部員達がゆるゆると立ち上がる。それを確認しながら「携帯は?」と聞けば持ってるはずだが出ない、と柳が答えた。



「なら、俺が迎えに行くぜよ」

話を聞いていたのか、いつの間にか話の輪に入ってきた仁王がそういってテニスバッグを持ち直すとこちらに背を向け歩き出した。その申し出が意外だと思ったのは幸村だけじゃなかったようで柳達も驚いたように仁王を見つめている。

バスのドアが開き、とりあえず部員に乗り込むように指示した真田だったがが心配なのかチラチラと会場側を見ている。自分が行きたいのだろうが、部員を先導する役目もあっていうにいえない、というところだろう。そんな姿を見ていたら急に興味がわいて足が動かした。


「いいよ。俺が行く」
「幸村?」
「少し歩きたい気分なんだ」

仁王に追いつき、そういえば彼は驚いたようにこっちを見て立ち止まった。了承した意味かと思ったけど視線を感じてチラリと振り返れば彼と目があった。

「…あんまり、苛めるんじゃなかよ」
「…そんなこと、しないよ」


読み取らせない表情でいわれて一瞬、なんのことか考えてしまったがすぐに思い出した。思い出したがそんな気は最初からなかったので笑顔で返せば少し眉を寄せた仁王が「それじゃ、頼んでみるかのう」と溜め息混じりに背を向けた。



会場に向かいながら、もしかして仁王はあの時の話を知ってるんじゃないかと思った。
マネージャーとして認めない、マネージャーを辞めるように誘導した俺の言葉を聞いたら誰だって不快だろう。イジメと捉えられても仕方がない。

でももう過ぎてしまったことだ。今更後悔しても時間は戻らない。もし気にしてるなら謝ろう。あの時は自分が悪かったと。そう安易に考えていた。


程なくして会場につけば正面の入口に誰かが立っている。
見慣れた立海の制服にすぐにだとわかった。彼女は幸村に背を向けるように会場を見上げていてただ立っている。その後ろ姿が儚げで泣いてるように見えた。


「終わったんだなー…」

近づけばそんな呟きが聞こえた。彼女の言葉になんとなく胸が締め付けられる。振り返る彼女に「さん」と呼びかければ彼女は大いに驚いたようで肩を揺らし幸村を瞳に写した。

「ビックリした…」
「ごめん。どう声かけようか迷って」
「そ、そう…」

返ってくる反応に大丈夫そうだ、と思った。目も赤くないし潤んでもいない。

そういえば、試合後の挨拶で彼女は泣いてなかったな、と思い出した。もしかしたら少しは泣いたのかもしれないけどあの場では皆瀬や他の部員達の方が泣いていた。皆瀬を慰める姿をチラリと見たけどは優しく彼女の背中を撫でるだけで泣いてはいなかった。

それでもいいと思う。泣かないからといって共感できないとは思わない。それだけは心が強いんだろう。



「……あ、そうだ。遅くなったけど退院おめでとう」
「…ありがとう」

夕日の光が眩しそうに目を細めたがポツリと零した言葉に幸村は小さく微笑んだ。
そうだね、退院して今迄とは何も話していなかった。

もうテニスが好きとか嫌いとかそういう区切り方はやめようと思った。
花壇の花のようにただそこにいるだけでいい、という存在もあるのだと認めよう。


「行こうか」という彼女の後を追いかける形で駐車場に向かう。ただ無言で歩く後ろ姿に幸村は何から話そうかと迷った。
自分がいなかった時の部活の話やテニスのこととか…テニスばかりだな。ああでものことももっと知りたい。何が好きなのかとか苦手なものとか。真田の失敗話を聞くのもいいだろう。

でもその前にちゃんと謝っておかないといけない。俺が傷つけたことには変わりないんだから。

立ち止まったに今がいいかもしれない、と思った。折角こうして出会えたのだ、3年の残り半分は赤也達を冷やかしながら一緒にゆっくり過ごせばいい。その方が真田達も喜ぶだろうから。
そう伝えるつもりで口を開いたが、の方がほんの少し早かった。


「あのさ、幸村くん」


そう振り返った彼女はまるでこれから試合をするみたいな顔で、出そうと思っていた言葉を飲み込んでしまった。彼女の真剣な表情に、嫌な予感がした。

その予感は正しかったようで、差し出された封筒に言葉を失った。
『退部届』と書かれた白い封筒に目を見開き、を伺えば彼女は視線を下げたまま力なく笑った。



「…さん、これ」
「"退部届"。本当は幸村くんが退院した時に渡そうと思ってたんだけどリハビリやら練習やらで忙しかったでしょ?私も会いに行けるタイミングなかったし」
「………」
「マネジだからこういうの書く必要ない気もしたんだけどさ。なんていうかな。ケジメ?みたいな」

というわけで受け取って、と更に退部届を突きつけてくるがすぐに動くことはできなかった。


思考が鈍く回転する。
いつの間にこんなものを書いていたんだろうか。試合が終わってすぐかいたのか?いや、それならこんなくたくたになっていないだろう。ならもっと前に?俺が退院してから?…もしかしてあの話をした時に?

考えれば考えるほど悪い方にしか考えられなくてサアっと血の気が引いた。これを持ったままはずっと普通にマネージャーの仕事を続けていたのだろうか?脅すように約束させた俺の間違った考えを鵜呑みにして今迄何もいわずにいたのか?

恐る恐るを見れば、口元を吊り上げ笑っていた。


「引継ぎとか大変だろうけど頑張ってね」

そんな他人事みたいなことをいっては退部届を俺に押し付け走っていく。
その背中を眺めながら俺は呆然と立っていることしかできなかった。






しばらくして、なんとか動くようになった手足を無理矢理動かしバスに乗り込むと真田と柳が心配して声をかけてきてくれた。いや、真田は怒ってるな。バス内に響いて赤也と丸井が文句をいっている。

奥の席を見ればが窓の外をしきりに見ている姿が見えた。いたんだ、と少しホッとして、それから当たり前かと思い直し前の方の空いてる席に座った。


「幸村、本当に大丈夫なのか?」
「ああ。でも泣きたいから1人にしてくれないか」

覗き込んでくる真田に笑ってそういうと、驚いた顔をされたが黙って他の席に座ってくれた。
合図と共に走り出したバスは会場を後にする。流れる景色を見ながらさっきまで綺麗だと思ってた夕焼けが酷く悲しく見えた。


今更後悔しても時間は戻らない。自分でそう思ったくせに今はその言葉が重く胸に突き刺さる。


「俺のバカ……」


まるで告白する前に失恋をしてしまったような気分だった。





2013.01.23