□ 113a - In the case of him - □
ラストオーダーも終わり、は時計をチラチラ見ながら手早く後片付けをしていた。そんなそわそわしているの横を通った店長が何の気なしに声をかけてくる。
「さん、何かいいことあった?」
「へ?」
「最近ちょっと変わったよね?」
内心どうせ今日も再確認とかいって計算を何度もして帰るのが遅くなるんだからさっさとレジ金の確認を始めてほしい、と思ったが、彼女の言葉に目を瞬かせた。私が変わった?
私生活がてんやわんやだからいつも自分に手一杯でお客どころか従業員にも気が回らない人なのに何の気まぐれだろうか。内心初めて驚きながらもは髪を触りながら「髪型ですかね?」と適当に返した。
「NonNon。違うわよ。何かねーここに入った時より楽しそうなのよ。仕事が慣れてきたからかしら?」
「そうですね。でも、忙し過ぎるのは楽しくないですよ」
「あーはははー…」
「これ以上負担が増えるようでしたらここ辞めますから」
「あ〜ん!そんなこといわないで!さんに抜けられたらお店潰れちゃう!!」
「大丈夫ですよー店長がいるじゃないですか」
私がいなくたって仕事回りますよ!とにこやかに切り返せば「今バイトの子募集してるから!あともうちょっとだから!!」と平謝りしそそくさとレジの方へと逃げていった。まったくあの人は…。
先日跡部さんにかけてもらった電話のお陰でへの待遇がぐんと良くなった。逃げ腰やる気なしだった店長の腰もやっとあがり、今は真面目にバイトの子を探してくれている。
残念ながらまだ目ぼしい子は1人しか現れていないが、がお店を抜けるとわかった店長なりに急いでいるようだ。…私がいなければ今このお店は半分も機能しないからな。恐ろしい話だ。
早く仕事仲間が増えますように、と念じながら片づけをしていると最後のお客さんも帰りテキパキと店じまいを始める。達の片づけが粗方終わっても店長は帳簿と睨めっこしていたが今日は早々に引き上げることにした。
ここに入った初回から戸締りを忘れるという店長なので裏口のドア以外は念入りにチェックして上の空で返す彼女にも念を押してお店を後にした。
「あ…」
「どうかしました?」
一緒に出たバイトの子が振り返りの顔を伺う。は丁度自転車の鍵を取り出したのだが一緒に携帯も手にすればメールの受信ランプがついていて相手を確認したところだった。
「ん、んーん。なんでもない」
「あ、もしかして彼氏ですか?」
「ち、違うよ!!」
「またまた〜!口緩んでますよ」
「ぅえ?!もう!からかわないでよ!」
「いいなぁ彼氏!これから会うんですか?」
「違うって!ただのメール!」
年上をからかうんじゃありません!と冗談交じりに怒ればバイトの子はケラケラ笑って「お疲れ様でした〜」と逃げていった。あの調子のいいところは赤也みたいだ。
自転車置き場から自分の自転車を取り出したはもう1度携帯を覗き込んだ。画面に映るメールの内容に自然と頬が緩んで、さっき指摘された言葉を思い出し顔を引き締めた。いかんいかん。
さっさと帰ってそれから電話しよ。そう考えたら心が妙に弾んで足も軽くなってペダルを思いきり漕ぎ出したのだった。
******
真田弦一郎は悩んでいた。目の前には真剣な顔で己の献立を考えているが座っている。勿論その隣にはコーチも座っているが弦一郎はじっとだけを見つめていた。
今日は都内某所で昼食を兼ねた打ち合わせをしているのだが、メインはとコーチの話し合いだ。自分はリクエストや体調のことで時々口を挟むくらいで大半はその様子を伺っていることが多い。
包丁を持たせたらまな板ごと切ってしまいそうだ、と思われているらしくにも家族にもキッチンになかなか立たせてもらえない。恐らく柳と柳生が調理実習の時の俺をに漏らしたのが原因だろう。切ったといってもヒビが入った程度なのだが…あの包丁は切れが悪かった。
かといって何か作りたいのか?というほど欲求はないし、自分が作るよりは作ってもらう方が美味しく感じるので不満もないのだが。
それは、まあいいとして、今真田が気にしていることは自分の従妹のことだった。
「そういえば、この前帰国した時にちらし寿司を作ったんだって?」
「え?あー!はい。"真田家のお祝い事はちらし寿司"って決まってるらしくて」
「っ?!こ、コーチっそれは!」
「全豪の時、景気づけに弦一郎が食べたいって駄々をこねたことがあってね。それ程美味しいならそれも教えてもらえないかなって思ったんだ」
「コーチ!!」
「あははっそんなこといったんですか?確かに美味しいですけど隠し味も何もないですよ?それにあれは弦一郎のお母さんが作ってて私はお手伝いしただけですし」
「!」
「ああーそれで。じゃあ他人じゃ作れないか…すまないね、弦一郎」
「………い、いえ」
知らぬ間に話が変な方に向かっていて、微妙に辱められた気分になった真田はぎゅっと眉を寄せ口を一文字にした。その顔を見てとコーチは小さく噴出したが「お袋の味は難しいですよね」とが締めくくった。
「あ、すまない。電話だ」
程よいところでコーチの携帯が鳴り響き、彼は席を立つとそのまま店の外へと出て行く。それを軽く視線で追ったがすぐに戻した。
「ん?何?」
「いや、なんでもない……いや、ある」
「どっちよ」
目が合ったになんとなく動揺して隠そうとしたが言い直し姿勢を正した。しかしはそんな真剣な真田の顔もいつものことのように笑って冷めたミルクティーをすすった。
「その、だな」
「まぁた柳か幸村に何かいわれた?」
そういう顔の時はいつも決まってるのよね、と見透かしたは苦笑して図星を指された真田は顔をしかめた。
「……幸村でしょ」
「当たりだ」
「やっぱりねー」
じっと見つめてくるになんとなく居心地が悪くて身構えたが出た言葉には素直に頷いた。
先日久しぶりに幸村から電話があったと思ったら『最近、に変わったことはない?』と真田に聞いてきたのだ。
のことであればむしろ俺よりも幸村の方が知っていることが多いのに何故?と思い聞き返せば『、俺に隠し事してるんだよね』と低くなったトーンが真田の鼓膜を揺らし、それとなく聞いてくれないか?という話だった。
「幸村が俺に聞くということはそれなりのことがあるんだろう。隠し事は何だ?」
「…隠し事って…。つーか、そういう詮索しないでほしいんだけど」
私いい大人なんですけど。子供扱いやめてくれない?と眉を寄せるに真田もなんとなく同じことを考えながらも「はぐらかすな。大人しく白状しろ」と詰め寄った。
「…もしや、手塚と何かあったのか?」
「あるわけないでしょ。今彼ドイツだし」
「……連絡を取り合ってるのか…?」
「連絡くらいいいじゃない」
「何日おきだ」
「(何日おきって…)……最初は毎日だったけど…だったよ、だった!立ち上がんないで!他のお客さんに怪しまれるでしょ?!……ここ最近は数日に1回かな」
練習忙しいみたいだし。そういってはティーカップに手をかけたが飲まずに客席の方へと視線をずらした。
昼食といっても遅い時間に入ったせいか店内は空席も何個かあり、店員も暇そうに客席を眺めている。が見ている先に視線をやれば学生のカップルが楽しそうに話してるのが見えた。
「前は1ヶ月とか数が月に1回くらいしか連絡とってなかったし。まあ、そんなもんでしょ」
「……諦めたのか?」
手塚のスキャンダルはテレビ伝で耳にした。それを聞いて最初は怒りを覚えたし、ふしだらな…と嫌悪感も抱いた。
しかし、よくよく考えれば真田にとって願ったり叶ったりだったし、奴も男であって、スキャンダル自体も偽りだったのだが。が絡んでなければ真田もここまで嫌悪感を抱くことはなかっただろう。
ともあれ、と手塚が交際することを反対していた真田は慎重に、しかしどこかで期待するように目の前の彼女を伺うと、は一瞬だけ瞳を揺らし、それを誤魔化すように苦笑した。
「さぁてね。どうかな」
「しかし、奴は言い繕うこともせずの前から去ったんだぞ」
「去ったんじゃなくて避難だよ」
ドイツにまで記者行ってる手塚くんの気持ち考えなさいよ、と苦言を零すに真田は「身から出た錆だ」と言い返せば従妹はなんとも言い難い顔で見返してきた。
「…手塚くんとは友達だよ。ずっといい友達、だと思ってる」
カチャン、とカップを置いたは視線を落としたままそういって口を三日月型にした。真田の角度からそう見えたが実際はわからないしも下を向いたままだからなんともいえないが。
ただ伝わってくる雰囲気や声色が幸村と別れ、事実を飲み込んだ時と同じに見えて真田も張り詰めていた肩の力を抜いた。
「…後悔はしないか?」
「?弦ちゃんからそんなこといわれると思ってなかった」
「…っお、俺だってそれくらい譲歩することだってある!お前が、心配だからな!!」
「……」
「俺は、もうにあの時のような辛い別れはさせたくないんだ」
自分でいって何様だと思った。これはあくまでと幸村の話で自分は何も関与していない。巻き込まれた部分はあるが幸村も信頼たる人物でだってしっかり自分の足で立てる女だ。
そうわかってるのに口走ってしまった言葉にテーブルの上で握り締める両手を睨みつけると、「ぷ、」と噴出す声が聞こえた。顔を上げればさっきよりも柔らかくなった顔で微笑む従妹がいて真田は目を瞬かせた。
「ありがと弦ちゃん。あの時は随分迷惑かけたもんねぇ」
「俺は、別に気にしてなどいない…!」
「うん。私もあそこまで傷つくようなことはしないよ。今度はちゃんといいたいこといって戦う」
「……」
「まあ、その前に"相手"なんだけど…」
「それなら、」
そういったは曖昧に笑って頬杖を付いた。
別れ話に納得もスッキリもありえない話だ。それは両方を見ている俺ならよくわかる。けれど俺は、それでも尚には幸村が、幸村にはがお似合いだと思っている。
それを口にしようとしたがその前にコーチの姿を見つけ言葉が止まった。そしてその後にとんでもない言葉を聞く羽目になる。
「今になってあんた達の気持ちがわかるようになるなんて思わなかったよ。……言い寄られるのって、なんか、大変だね」
仁王の気持ちがやっとわかったかも、とぼやいたの頬は赤く染まり、真田から視線を逸らす姿はどう見ても"そう"にしか見えなくて、真田は目が乾くほど凝視するのだった。
******
今日も今日とて無駄に忙しく仕事をしたはいつものように大体の戸締りまで確認して引き上げた。そしてバイトの子と別れなんとなしにポケットに突っ込んであった携帯を取り出した。
今日は自転車がパンクして家に置いていくしかなく、引き返すのと徒歩のせいで遅刻してしまった。
しかし日頃の行いのお陰か店長は「次は気をつけること」といっただけでつつがなく仕事が出来た。
彼女の優しさなのか雑なだけなのかあえてつっこまないが私がいなくなったらこの店はどうなるんだろう、とちょっとだけ心配になっている。
ううーん、と唸りながら携帯を確認すれば跡部さんからメールが届いていた。あちらはあちらで楽しくやってるのかと思いきや『1人の飯のは寂しいもんだな』という文面だった。
跡部さんも寂しい、なんて思うんだ。と感心して、それから『と一緒に飯が食いてぇな』と文面が続いている。それを見て無意識に頬が緩んだ。
「お前の手料理でもいい、って…私の料理はおまけか!」
「よぉ、」
だらだらと歩道を歩きながら携帯を見てつっこんだら、聞き覚えのある声が耳に入りドキリとした。顔を上げれば道路脇に止めてある車の前で誰かが寄りかかっている。
ここは外灯が多いから近づけば顔がすぐわかるくらいには明るかった。まさか、と思いつつも近づけばそこにはやっぱり跡部さんが立っていた。
「え、ええ?!何で?」
「アーン?んなの、迎えに来たからに決まってんだろうが」
「は?迎え?」
「メール、見たんだろ?飯食いに行こうぜ」
お前明日休みだろ?そう聞かれはポカンとしてしまった。ええそうですけど。でも跡部さんにシフト教えてませんよ?何で知ってるんですか?
いきなり現れた跡部さんにまだ頭がついていけないは狼狽したが、跡部さんは意気揚々と助手席のドアを開けを連れ込もうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!ここ公道ですよ?!」
「アーン?だから何だってんだよ」
「いや、えと、き、記者とかパパラッチがいたら」
「んなの今更気にするまでもねぇだろ」
「私が気にしますよ!」
というか、パパラッチに追い回されるのは跡部さんだって嫌なはずでは?これが切欠になったらどうすんの?!と慌てたが何故か慌ててるのはだけで「大丈夫だからさっさと乗れ」と車に押し込められた。私は心配してるのに!
「安心しろ。こっちに来る前に奴らは撒いてきたし、車も俺のじゃねぇ」
「た、確かに…」
そういえば前に乗せてもらった時と座った感じも匂いも違う気がする。一体誰の車なんですか?と聞けば「秘書」とあっさり返しエンジンをかけた。悪い予感しかしません跡部さん。
「その秘書さんは…」
「俺の車を貸してやった。今頃パパラッチに追いかけられて彼女といるところを撮られてるんじゃねぇか?」
何人目かは知らねぇが。そういって鼻で笑う跡部さんは悪戯っ子のように輝いていた。意地悪な人だ。
手馴れた手つきでウインカーを上げハンドルをきった跡部さんは人通りの少ない静かな道路を走っていく。流れる街頭を眺めながらはハッと思い出したかのように慌ててシートベルトを締めた。
半ば無理矢理誘われて跡部さんに連れてこられたお店は県内にあるこじんまりとした居酒屋だった。最初は看板もないから本当にここに入っていいのか戸惑ったけど跡部さんは堂々としていて中にいた初老の亭主にも気軽に声をかけていた。
「意外、て顔に書いてあるな」
「……だって都内ならともかく」
「ここの亭主は元々俺の家のコックだったんだよ。退職した後、地元に戻って店を開いたってわけさ」
達以外客がいない静かな店内でおしぼりを貰うと、そっと温かい煮物が出てきては礼をいいつつ箸をつけた。柔らかさも味も優しくて程よい。疲れた身体に沁み込むようで思わず目が輝いた。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、その逆だ。スゲェ旨いってよ。旨い時はその味を噛み締めて動かねぇんだ」
「……」
図星を突かれ思わず頬を染めれば跡部さんは不敵に笑うので苦し紛れに睨んだが通じることはなかった。そして「そうなんですか。それは良かった」と安堵する亭主に何だか恥ずかしくなって「とても美味しいです」と小さな声で返した。跡部さんコノヤロウ。
「それにしても坊ちゃん、」
「その坊ちゃんってのはよしてくれ。これでもいい大人だ」
「私にとっては景吾坊ちゃんは景吾坊ちゃんですからねぇ。日本に越された頃の初々しいお姿も昨日のことのように目に浮かびますよ」
「……さすがにその頃とは大分変わったぜ?」
「いえいえ、私からしてみれば少しも変わっておりませんよ」
相変わらず野心に満ちた眩い目をしてらっしゃる。とからかうように笑う亭主に跡部さんは片眉をあげ微妙な顔になったが言い返さず「まったく、そうやっていつまでも子供扱いするなよな」と破顔した。
それを見ていたはまた既視感に襲われた。見てはいけないものを見たような、部外者のような変な感覚だ。
疎外感みたいな気分を味わいつつそれを見ないように出されたものを黙々と食べていれば「それにしても、」と亭主の声がこちらに向いた気がして少しだけ視線を上げた。
「景吾坊ちゃんがご友人を連れてここにおいでになるのは珍しいですね」
「この時間にそれなりのものを食わしてくれる店っていったらここぐらいしかないしな」
「そうでしたか。お住まいもこちらなんですか?」
「あ、はい。市内の方ですけど」
「自転車でも来れる範囲だろ?夜遅くもやってるし、ここはお勧めだぜ」
「看板を出していないのでわかりづらいかもしれませんが…よろしければ是非」
「は、はい!また食べに来ます!!」
シワを押し上げ柔らかく微笑む亭主にだからこんな優しい味が出るんだ、と変に納得したは次も食べに来ると約束して大きく頷いた。
破格値段だと思うよ。
2016.01.21