□ 57a - In the case of him - □
ジリジリと焼けるような暑さには滲む汗を拭って鍋をかき回す。さながら魔女のようだと思ったのは最初だけだ。今はそんなことを考える暇もない。
怒号のような声に返事をしたは火を止め、並べられたさらに盛りつけをしていく。それが終わればまた鍋に戻って火傷しそうなスープを注いだ。
ここは東京都内某所ににある合宿所。割高なバイト料にホイホイされて来てみれば異常な重労働に泣きそうになった。、現在給食のおばちゃんをしています。
「さん、こんにちは」
「あ、こんにちは」
「今日も元気ですね」
「あははっそれが取り柄だからね」
練習を終えた子達がゾロゾロ食堂に入ってくる。合わせてどんどん消えていく皿にあたふたしながらも用意していけばえらく大人びた男の子が屈んで挨拶してくれた。
元気が有り余ってるんだから大いに働け!と有り難くない言葉を先輩同業者にいわれ悪態をついたものの、彼にもそう見えるのなら認めるしかないのだろう。今度履歴書を書く時は元気が取り柄です、とでも書いておこうか。
合宿所にきてる子達はみんな礼儀正しいのだが、練習疲れもあってかぞんざいな素振りで皿を持っていく子が多い。けれど、目の前でニコニコと微笑む彼はちゃんとを見て挨拶をしていくのだ。
中高時代一緒だった柳生くんに似て、紳士的で礼儀正しい彼は髪型もメガネをつけてる様もそっくりではじめ見た時は相当驚いた。でも蓋を開ければ織田泰成くんという子で、実力も補欠程なのだという。身体付きを見れば結構強そうなのだが現実は世知辛いものらしい。
「ご馳走様でした」
「早っ!ちゃんと噛んだの?」
「ええ。さんの作るものは食が進んで早く食べ終わってしまいました」
そしてこの速さである。合宿メンバーの中で1番最後にやってきて1番最初に去っていく。どうやら自主連や下準備があるらしいが、が後片付けをしてコートを覗く頃には彼の姿はいなくなっているのである意味不思議な青年だった。
しかも毎回ちゃんと感想を残していくので更に柳生くんを彷彿としてならない。
褒められた最初は照れくさくて仕方なかったがちゃんと自分が味付けしたやつを見分けてくれたりたまにこういうのが食べたいとリクエストしていったりする。そんな訳で織田くんとはこの合宿で随分仲良くなった。
「外、暑いから気をつけてね!あ、あとはい!」
「?なんですか?」
「保冷剤。今日たくさん貰っちゃったから。何かに使って」
「何かって…わかりました。有り難く頂いておきますね」
あ、と思いだし冷凍庫からビニール袋を取り出したは織田くんに手渡すと、彼は苦笑気味に笑って持っていった。夏場の保冷剤を舐めるなよ?あるのとないのとで雲泥の差があるんだ。
「ご馳走様でした〜」を声をあげる他の合宿生にが返すと腕を回し、織田くんがいなくなったドアを見てそれから洗い場に向かった。
片付けが終わり、夕飯の仕込みと在庫の確認をしていると同じバイトで入っていた年上の先輩が頬を赤らめて食堂に駆け込んできた。は食品保管庫にいた為気に止めなかったが、ある意味懐かしい黄色い奇声を耳にして何だ?と顔を出した。
「ど、どうしたんですか?」
「さんさん!今外に来てる人誰だと思う?!」
「誰か来客してるんですか?」
「そうなのよー!!」
固まってる数人の先輩達に首を傾げれば彼女達はうっとりした顔で「やっぱ出来る男っていいわよね〜」と溜め息をつく。どうやら相当ダンディなおじ様がいらっしゃったらしい。
「あそこよ!あそこ!」と1人の先輩が指差す方を見れば窓の外に広がるコートと合宿所の間にある通路にいかにも高そうなスーツを纏った男性が立っている。コート上にいる選手を見ている為背中しか見えないがとても格好良さそうだと思った。
「ああ、後ろ姿も絵になるわね!さすがは榊グループの代表!榊太郎だわ!!」
「…へぇ…あれが…」
あれが、榊さん。手を組み、悲鳴に近い賛美に返しながらぼんやりと窓の外を眺めているとその榊太郎が振り返りバチッと目があった。
あれ?あの人どこかで見たことがあったような、と一瞬何かが過ぎったがサボってるのがバレたという方が大きくては慌てて頭を下げ奥の方へと逃げていった。
******
今日も今日とて織田くんと他愛ない会話をして帰宅したは最近やっと住み慣れたアパートの2階でい草クッションに座りながら電話をしていた。
相手は懐かしくも皆瀬さんで、やっと柳生くんと婚約したという報告をもらったところだ。相変わらずゆっくりのペースに笑ったが「よかったね」と祝えば照れた声で『ありがとう』と返してくれた。
『ちゃんの方はどう?新しいバイト先は慣れた?』
「あー思い出させないで!折角忘れてたのに!」
『そんなに大変なの?』
「予想以上に鬼畜現場だった。もうマジありえない!!管理栄養士とかイチイチ煩いしさ!そんなこと知ってるっての!!て何度思ったか」
『夏場はどうしてもピリピリするもんね〜』
「あの人1年中そうらしいよ。絶対あんな人にはなりたくないわ」
『ちゃんも同じとこ目指してるもんね。真田くんも期待してたよ』
「ぅげ!もしかして弦ちゃんに会ったの?」
『うん。昨日たまたま会ってね。"がなかなか帰ってこないんだ"って愚痴こぼしてたよ』
「あいつは私の父親か!」
『でも、ちゃんがいてくれたら真田くんも心強いんじゃないかな?』
「腐れ縁もここまでくると呪いにしか感じないけどね…」
てっきり海外にいるのかと思いきや、どうやらあの従兄は神奈川に戻ってきてるらしい。
中学を卒業したは弦一郎達と共に立海高校に進学し、仁王と約束した通りテニス部のマネージャーになって、今度こそ三連覇を成し遂げた。その後は散り散りになったけど弦一郎はまだ心残りがあったようで現在はプロテニスプレーヤーとして活躍している。
絶対跡を継いでくれると思っとったのに!と弦一郎のお祖父ちゃんは嘆いたが警察官にはお兄さんがなってるから残り少ない対抗心で別の道を選びたかったのかもしれない。
その流れで「俺の専属マネージャーにならないか?」と弦一郎に告白紛いなことを言われたのが高校卒業前。勿論「さすがにこれ以上アンタの面倒をみたくないわ」と断った。
お前は私と結婚する気か。といったら顔を真っ赤にして否定しやがったけど、どうやらまだ諦めていないらしい。
ついっと視線を足の爪先からテーブルの上に移せば分厚い本が何冊も積み重なっている。食育からスポーツ医学まで、本の間には付箋が何枚も飛び出しているが、弦一郎の求める場所に到達するにはまだまだ時間がかかるだろう。
管理栄養士になってもスポーツ選手と契約を交わせるようになるには超えなくちゃいけない関門がいくつもある。管理栄養士の試験も五分五分といったところだろう。
弦一郎の為、というわけではないが高校から興味が湧いた調理を伸ばしていったらここに辿りついたのでもし可能なら取ってみようかな、程度に勉強してるだけだ。この辺の資格はあって困るものじゃないしね。
『そっちはどう?大分慣れた?』
「大分ね〜。でも寝に帰ってるだけみたいなものだけど」
『うわ〜。今度どっか遊びに行こうよ!』
「そだねー…時間あればいいけど」
『どこに行きたい?』
「勿論温泉」
シャワーだけじゃなくてゆっくりと広い湯船に浸かりたい、と溢したら『相当疲れ溜まってるね』と同情された。
『そういえばちゃんが働いてる場所ってテニスの合宿所でしょ?都内だし誰か知ってる人に会ってないの?』
「確かに氷帝とか青学とかいるけど合宿所来てるの高校生とかだよ?」
さすがに見知りはいないよ、と返せばそっかーと残念そうに皆瀬さんが呟いた。
『仁王くんのことだからきっとちゃんのところに行ってると思ったんだけどな〜…』
「いやいやいや。ありえないでしょ」
流石に詐欺師も卒業して大人しくなったでしょーよ。学生じゃないんだから、と笑えば皆瀬さんも笑った。こうやって話してると学生時代に戻った気がして、だからそんなことを思ったのかもしれないな。
******
そんな風に浸っていたせいだろう、はついうっかりあることを失念していた。
「お疲れ様でしたー!!」
「気をつけてね!」
「なんなら車出すわよ?」
「大丈夫です!ありがとうございます!!」
バタン、とロッカーを閉めたは先輩達に挨拶をすると足早に合宿所を後にした。今日は土曜とあってコートにいる選手達も後片付けをしている。夕暮れとはいえまだ明るいのもあってコートにいる選手の顔もよく見えたが生憎織田くんの姿はなかった。
まあ、いたからといって何もしないのだけど。
今日はこれからとあるホテルでとある人物と待ち合わせをしている。そのホテルは品川にあるんだけど生まれてからこの年になるまで品川に降りたことは数回あるかないかだ。携帯で何度も地図を確認しながら電車を乗り継ぐと意外とあっさりと品川駅に着いた。
「駅、でか!」
そういえばここも新幹線止まるんだっけ、なんて周りを見渡していると時計を見つけて慌てた。やばい、あと15分しかない。
大慌てで自動改札機を抜けたは案内に従って階段を駆け下りていく。信号機で足止めをされたが走ってなんとかホテルに辿り着いた。
「って、鳳凰の間ってどこ〜?!」
フロントじゃない方から入ったせいかホテルマンも案内図もなくて顔が蒼白になった。時間厳守に煩いアイツを怒らせたら間違いなく強制送還される。
どこだよー!と急ぎ足でそれらしい案内図を辿っていったが目ぼしい名前が全然出てこない。エレベーターで上がってしまえば、と思ったがどうやら棟が違うようで目の前にあるエレベーターに乗っても辿りつけるかはわからなかった。
「あれ?どうしました?」
「え?」
どうしよう、と時計を確認しながら奴に遅刻の電話するか否かで迷っていると丁度エレベーターから出てきたホテルの制服を来た男の人が声をかけてきた。やった!
「あの!鳳凰の間まで行きたいんですけどどうすればいいですか?!」
恥はかきすて!と涙目で訴えれば彼はきょとん、として、それから安心させるように微笑みこのエレベーターで行けますよ、と教えてくれた。
「よければ近くまで僕が案内しましょう」
「いいんですか?!ありがとうございます!!」
神様!と心底助かったと礼を言えば彼は「いやあ、それ程でも」とオレンジに近い茶髪の髪を掻いた。
一緒にエレベーターに乗り、最上階のボタンを押され点灯するとゴウン、という音と共にエレベーターが上昇した。これで遅刻は免れそうだ。そう思って息を整えていると視界に鏡とそこに映る自分が見えてぎょっとした。
「うわ、」
「?どうかしましたか?」
「いえ、随分酷い顔だなって思って…」
多分走って汗で化粧が落ちたんだろう。こりゃ化粧し直さないとな、と思いつつお見苦しいものを見せましたと謝れば彼は笑って「何でですか?」と切り返してくる。
「急いでいたんでしょう?それに、化粧をしなくても君の美しさはひとつも損なわれてないと思いますよ」
「えっ…」
「しいていえば、そのリクルートスーツより華やかなワンピースの方が似合うと思うけどね」
何?え、これナンパ?
ぎょっとして彼を見ると「面倒な仕事押し付けられてこのまま逃げようかと思ってたんだけど君みたいな美人に出会えたなら嫌々引き受けた甲斐があったよ。ラッキー」とにんまり微笑んだ。
この人アルバイトだろうか。だから髪の毛も明るいままなんだろうか。そう思ったら変に納得した。
「さぁ、ついたよ。鳳凰の間はこっち」
「あ、あのその前にトイレに行きたいんですが」
程なくして着いた最上階に随分砕けた喋りになった彼が手を引いて案内しようとする。それは仕事の範疇じゃないと思います。
なんだかよくわからないけど忍足くん以来久しぶりに身の危険を察知したは視界の端に見えたトイレを指差す。手を引き抜かれ、宙に浮かせたまま目を瞬かせた彼はすぐに納得がいったようで「身だしなみは大切だもんね」と微笑んだ。微妙に、君には言われたくない言葉だ。
「じゃあ、はいこれ」
「へ?」
「終わったら連絡してね」
逃げ出せたと思ってた手をしっかり掴まれたは内心、ゲッと思ったが手の中にあるものに目を瞬かせた。すぐに顔を上げれば彼はウインク付きで「またね」といってエレベーターに戻っていく。
にこやかに手を振る彼に思わず手を振り返してしまったが、彼は一体なんだったんだろうか。
「"せんごく、きよすみ"……」
手の中にあった白い紙を開けば携帯番号とアドレス、それから名前があっては瞠目した。
初めてこんなの貰いましたよ私。ていうか、いつ書いたんだろう。
ラッキー千石。
2013.10.13