□ 番外編 ・ 仁王 4 □
幸村の誕生日会に呼ばれていたが、鈍った身体で参加するにはなんとなく気が引けて辞退し、仁王は練習に励んでいた。
休んでいた分を巻き返すと柳生に言えば快く頷いてくれたがもう始まった頃だろうか。テニスコートに立っている時計を見て空を仰げば1番星が輝いていた。
その空もどっぷり暮れて外灯しか頼りになる光がない空間にぽつん、と少女がテニスバックを抱えて立っていた。
その少女はテニスバッグを大事そうに抱えていて時折、持ち手のところを愛しそうに撫でている。それを見つめ胸がじわりと温かくなるのを感じながら、仁王はネクタイを緩めに近づいた。
丸井のお節介でこんな遠いテニスコートに来たは甲斐甲斐しくも仁王の腕を心配していた。今もサポーターをつけろと怒ったり腕を労わるように丁寧にそれをはめている。
いつもなら余計なお世話だ、と突っぱねるところだが視聴覚室の一件以来、にいわれると逆らう気が起きなくてついついされるがままになってしまう。
「大丈夫?きつくない?」と上目遣いで伺ってくる彼女に頬が緩んだがなるべく顔に出さないように頷いた。そんな仁王の態度が気に食わなかったのか呆れ半分に「気をつけなさいよ!」と怒る彼女が異様に可愛くて思わず口元を綻ばせればこれでもかと目を見開かれた。
それから長くもなく短くもない駅までの道のりをと並んで歩いた。こうやって一緒に帰るのはいつぶりだろうか。
自転車で通う姿を見なくなったのが冬辺りだからそれくらいからか?
確かに今年の冬も寒かったから仕方ない。
しかしそうなると2ヶ月ぶりになるのか?…結構空いたな。
それじゃ確かにの動きも思考もわからなくなるわけだ。
隣をちらりと見れば前をまっすぐ見据えるがいて、時折不安そうに周りを見ながら歩いている。本当に初めて来たんだな、と思ってまたじわりと胸が温かくなった。
「…こうやって2人きりで帰るのは久しぶりじゃの」
「へ?……あ……あーうん。そうだね」
その視線をこっちに向けてほしくて声をかけてみれば何か考え事でもしていたのか気のない返事が返ってきた。そしてがこっちを向いたと同時に視線を戻してしまった俺はあれ?と内心首を傾げた。
こっちを見てるとわかってるのに視線を合わせるどころか身体が緊張してる気がする。随分話してなかった反動か、その後の会話も変に緊張して上手く返せなかった。
「うげ、」
駅に着くと早速が自動改札機にとうせんぼされ、思わず吹き出しそうになった。赤い顔で券売機に向かう後ろ姿を眺めながらヒラヒラと揺らめく髪とスカートに目を細めた。むぞらしか。
を待ちながらこれからどうしようか、とシャッターが締まった店の前に立ちながら考えた。時間的に考えれば家まで送った方がいいのだろう。けれど、この会話の調子で送って行っていいものか考えてしまう。
のことだから良くても悪くても断るだろう。仁王は無言でも気にしないがは違うかもしれない。自分も緊張しているみたいだし、気まずい空気を作ってしまう確率が高い。
でもそれで引き下がって帰るのは男としてどうだろうか。しかも気になる相手に。こんな遅くに俺に会いに来たのだ。送らない方が失礼じゃないか?
「(手、繋いだら引かれるかの…)」
「何、ボーッとしてるの?」
会話もまともにできてない状態で何を考えてるんだ、と自嘲していると聞き覚えのある声に視線を下げた。そこには由佳がいてビクッと知らずに肩が跳ねた。
彼女はそんな仁王を見てやや不機嫌顔で「何してたの?」とわざわざ聞いてくる。背中にあるテニスバックに触れないつもりらしい。
「別に。それよりお前さんこそ何してたんじゃ」
「遊んでたの。ていうかさ、今日もメールしたんだけどシカトとか酷くない?」
「…ああスマン。最近迷惑メールが多くて電源切っとった」
「それ、前もおんなじこといってたよね?それで私"電源入れといて"っていったよね?」
「たまたまぜよ。それに今日は彼氏とデートだったんじゃろ?」
「……デートしても楽しくないから雅治に連絡したのに」
口にして、しまったと思った。こういう顔をする時は絶対逃がさないつもりだからだ。伸ばされた手が仁王の左手首を撫で、袖を引っ張った。甘えるように眉を寄せ俯く由佳にドキリとする。ここで頷いてしまえばを送るどころかここで別れることになる。それは困る、と思った。
「お願い雅治。冷たくしないで」
「……」
「雅治だけが頼りなの」
上目遣いに見られ仁王は息を飲んだ。ヤバい。今にも泣きそうな顔に視線が囚われ身体も動かせそうになかった。
「あれ。新島先輩ですか?」
ほんの数秒が何時間にも感じた視線から解放したのはの声だった。そのを一緒に見たが彼女は由佳を見つめたままこっちをチラリとも見ずに「どうしたんですか?」と自分の右側についた。
寄り添うような距離にドキリとしてしまったが由佳の声に我に返りどうしようかと眉を寄せた。
素直にいえばと帰りたい。けれど、染み込んでしまった癖でどうしても由佳のお願いを拒否できないのだ。「どうする?」と疑問形で聞いてはいるが表情は有無を言わさないものなのはすぐにわかった。引っ張られてる左袖が妙に重くて腕が痺れそうだった。
「新島先輩スミマセン。あの、……雅治くんはこれから病院行かなきゃならなくて」
「え?病院?」
「はい。練習控えろって先生言われてたのにさっきまで練習してて…具合もあんまりよくないっていうんでそれで」
しかしそんな仁王を助けるようにが口を開いた。その言葉に驚き見やるがの視線はまっすぐ由佳に向いていて、そこでまた驚いた。
真っ向勝負で由佳に嘘を言い放つと思ってなかったのだ。
あまりにも自然すぎる言葉に由佳も言い返すことができず仁王を見て「本当か?」と伺ってくる。その視線につい本当のことを言いそうになったがぐいっと引っ張られた上着にそれを飲み込んだ。
由佳の誘いを断り、自動改札をくぐった仁王はホッと息を吐いた。左手を見て意外にもあっさり離せるんだな、と思う。さっきまで枷のように重かったのが嘘みたいに軽く思えた。
「じゃまたね。あ、雅治!後でメールするから!」
「…に、新島先輩!」
左手をポケットに突っ込み、彼女の声に反応して振り返れば、も慌てたように振り返り由佳に声をかけた。
「こ、今年の大会見に来てください。に…雅治くんも活躍するんで!今年も絶対全国行くんで!!」
「…へーそうなんだ」
「テニスしてる雅治くん格好いいですよ!!」
そういっては仁王の右手を掴むとそのままホームまで一緒に駆け上がる。仁王はというとじっと見つめてくる由佳よりもの言葉の方が気になってそれどころじゃなかった。
丁度来た電車にかけ乗り、ドアが閉まるとは息を切らせながらその場に蹲った。
そんな格好じゃパンツ見えるじゃろ、と周りを警戒すれば少し離れたところにいた大学生らしき奴がを興味津々に見ていたので見てんじゃねーよ、と睨んで視線を逸らさせた。まったく油断も隙もない。
走り出した電車にしばらく外を眺めていたがシートが空いてて座らないのもどうかと思っての手を掴み一緒に座った。というかもう少し危機感を持ってくれ。チラチラとこっちを見てくるサラリーマンを睨んで視線を追っ払うとの座り方をチェックしてそれから息を吐いた。
「(小さいの…)」
こんな手に自分は守られたのか。
震える手を見ながら仁王の心臓は少し早鐘を打っていた。脳裏に木霊してるのはの言葉で、初めて呼ばれた名前にぐんと体温が上がる。
自分の名前に大して興味なかったがに呼ばれて急に色が付いたように思えた。
名前を呼ばれてこんなにドキドキしたのは初めてじゃないだろうか。
付き合ったらそんな風に呼ばれるのだろうか、と先走った想像にうわっと顔を赤くするとから逸らし手で染まった顔を隠した。とてつもなく凄い想像をしてしまった気がする。
暑くなってる手にに不審がられてないかと伺い見れば疲れきった顔でだれていて仁王に気づいてる様子はなかった。ちょっと寂しかった。
*****
が降りる駅で自分も一緒に降りれば、彼女は頑なに一緒に帰るのを拒んでいた。あまりにも拒むのでへこみそうになったがさっきのこともあって譲らなかった。
一瞬でもが名前呼びに変えたんだと舞い上がった自分が恨めしい。
機嫌は当に治っていたがビクビクとしてるが面白くてそのままにしていると次のバスが来るまで時間があるというので歩いて帰ることになった。まぁ、バスでも家の前まで送るつもりだったがの。
とても残念そうにしてるの横を歩きながら人気のない住宅街の中を進んでいく。
「いつもこんな道を歩いとるんか?」
「ううん。1人の時はなるべく大通り通ってるし、この辺はいつもは自転車だから」
この道は近道だから、という彼女に相変わらず警戒心が薄いの、と思った。後で言い聞かせるのもいいが真田にも言っといた方がいいかもしれん。そんなことを考えつついつも立ち寄るというコンビニを教えてもらい、腹もすいていたのでと一緒に中へと入った。
コンビニを出て早速おにぎりとパンを完食すれば驚いた顔のがこっちを見ていて何だと構えた。
「た、食べる?」
「…お前さんのじゃろ?」
「だって仁王くんお腹減ってるんでしょ?」
そんなもの欲しげな顔で見ていたんだろうか。食べかけの肉まんを差し出されこれを食べたら丸井みたいじゃないか?と思い止まったが、がいいと言うんだしまあいいか、と控えめに食べた。
「……あ、」
「…どうした?」
「いや…」
欠けた肉まんをじっと見つめるを伺えば彼女は慌てたように肉まんを頬張り紙クズをさっさとゴミ箱に捨てた。なんとも男前な食いっぷりである。
「おっきな口じゃの。そんなに急がんでもよかったのに」
「…っう、ううん。だい、じょぶ」
「全然大丈夫じゃないやろ。これ飲むか?」
リスのように頬張るが妙に可笑しくて可愛くて飲み物を差し出したがそれを飲むことはなかった。別に飲み物に細工などしとらんというのに。そういう時ばっかり警戒するんじゃな。俺のせいでもあるが。
無理矢理肉まんを飲み込んだは「い、行こうか!」とこっちを見ずに家路へと歩いていく。何か急ぐことでもあったか?と思いつつ追いかければすぐに追いつきが悔しそうに睨んできた。
黙々と歩きながら手持ち無沙汰だな、との手を見ればガードするように両手が鞄の取っ手を握っていてとても繋げそうになかった。もしかして嫌がられたか?と不安になって顔を覗き込めば清々しいほどこっちに目をくれないので胸がきゅうっと締め付けられた。
「、」
「え?あ、何?」
「さっきのことじゃがな。実は助かった」
「……え、?さっきの、こと?」
「ありがとうな」
礼を言えば驚いた顔のと目があった。顔にわけがわからない、と書いてあって少し可笑しく思えた。
「いや………ていうか、ケンカでもしてるの?」
「ケンカするほど仲がいいわけでもなか」
「………付き合ってるんじゃないの?」
「付き合っとらんよ。由佳はただの先輩後輩じゃ」
「そう、なんだ」
「そうなんじゃ」
「…じゃあ何で別れろって柳生くん達にいわれてんの?」
納得しきれてない顔のまま聞いてくるに首を傾げれば益々不機嫌な顔になった。柳生には付き合うな、とは言われていたが別れろっていわれただろうか?そんな不思議そうな顔をすれば俺が言ったらしい。すまん、記憶にないぜよ。
「それこそ勝手な思いこみじゃ。噂が1人歩きして勝手に付き合ってるだの女遊びしとるだの広がったんじゃ」
そのせいでナリを潜めていた呼び出しが増えてたまったもんじゃない。最初は由佳と付き合ってると嘘をついたが(あ、これが原因か)途中からテニスするから、と切り替えたし。
これも柳生や皆瀬にバレたら大目玉を喰らうんだろうな、とわかって肩を竦めた。も似たような顔をしてる。それでも「気をつけなさいよ!」と心配してくれる言葉に安心して口元が緩んでしまうのだけど。
「この辺か?」
早足で歩いていくを追いかけていくと速度が緩んだので声をかければこの辺でいい、といいかけて止まった。
鼻をくすぐる髪の匂いに落ち着いていた心音がまた早くなる。通る車から邪魔にならないように、周りには見えないようにを隠して顔を近づければの肩がビクリと跳ねた。
電車の中では震えて冷たかった手も温かくなってる。
「さっきもいったが由佳とは…あの人と付き合っとらんから」
「うん?…うん」
「確かに昔、付き合っておったが今はただの友達ぜよ。最近は通り越して都合のいいパシリでもあるが…そういう感情は綺麗さっぱりなくなっとる」
自分でも言い訳がましいと思う。けれどそうでもしないとには伝わらない気がした。誰にでもいい顔をして自分と距離を作ったことに腹が立たなかったといえば嘘になる。けれど、自分の噂に惑わされて離れようとしてるならそれはもっと嫌で、どうしても繋ぎ止めておきたくて。
「お前さんだけは他の奴みたいに勘違いしてほしくなか」
テニスも自分も全部ひっくるめて見てほしいと思ったのは初めてだった。
どうせ分かり合えないのだからって最初から諦めていた。
今迄付き合った奴も自分の嘘に騙されて、怒って、呆れて、離れていって。
仲が深まれば深まる程思ってもないことをいうことが増えて、段々と自分の気持ちも冷えていって。
気づいたら好きと嘘の境がわからなくなっていた。わかるのは本能的な部分だけで心はいつも空っぽ。由佳を想うだけではもうその隙間は埋められなくなっていた。
「俺を信じてほしいんじゃ」
切羽詰った言葉に自分でも笑ってしまう。でも、茶化すところじゃない。そこまで嘘をついてしまったらには伝わらない。と目を合わせれば驚いたように目を見開いて固まっていた。
きっと自分の顔が見たこともないくらいヘタレなことになっているんだろう。
それでもいい。こんな顔他には見せないし、目の前にいるにしか見せられない。
必死な形相に気圧されたのか、同情してくれたのか、は覆うように握った仁王の手を更に覆うように手を添えてふわりと微笑んだ。
その笑顔はいつも見てる友達のような顔じゃなく、視聴覚室で見た時と同じもので、仁王はどうしようもなく胸が高鳴った。
「大丈夫、だよ。仁王くんが詐欺師でテニス好きなのわかってるから」
どこまで知ってるのか。本当に知ってるのか、正直今の仁王にはわからなかったけど、でもそれでもの言葉に安心した仁王はたまらず彼女を掻き抱いた。
頭を撫でる感触に子供扱いか、とつっこみたくなったけど、それも嬉しくて仁王もに見られないように小さく笑ったのだった。
55、56話の裏。
2013.04.21